それはリオが夜会へと向かう日の前夜のことだった。
王都の人間がすっかり寝静まってしまった深夜。
既にガルアーク王国の王都に滞在してから数日が経過し、ようやく宿での生活にも慣れ始めて、少しずつ緊張もとれてきた。
まだ少し慣れないベッドに背を委ね、王都の宿屋に滞在している美春達も眠りに就いていた頃――、綾瀬美春は夢を見た。
セピア色の風景の中で、見覚えのある少年と少女が向き合っている。
見覚えがあるのは当たり前だ。
二人は幼馴染で、少女の方は美春本人なのだから。
夢の中だというのに、妙に頭は冷静で、意識がはっきりとしている。
美春は幼き日の自分と幼馴染の少年とが向き合う姿を横から眺めていた。
間違いない。
今見ている夢は美春が過去に体験した出来事を再現している。
それはある夏の日のことだった。
燦々さんさんと日差しが降り注ぐ――、そんな日の甘酸っぱい出来事。
美春は思う。
あの頃の自分は気が弱くて、泣き虫で、幼馴染の少年の傍に付いて回るのが当たり前の日々だった、と。
人見知りが強くて、当時は少年以外に友達らしい友達もいなかった。
だからそれは当然だったのだろう。
幼馴染の少年が自分の前から消えてしまうと知り、当時の美春がわんわんと泣き出してしまったのは。
夢の中の美春は泣きながら必死に幼馴染の少年に抱き着いていた。
泣き止まない幼い自分とは対照に、夢の中の幼馴染の少年は気丈に美春を励ましている。
思い返せば幼馴染の少年はいつも傍にいて、いつも優しくて、誰よりも美春のことを守ってくれていた。
「次に会ったら結婚しよう!」
いつまでも泣き止まない美春に、幼馴染の少年が決然と呼びかけた。
絶対に迎えに行くから、と。
幼い美春がぼーっと幼馴染の少年の顔を見上げている。
横から見ている美春もなんだか恥ずかしくなってしまって、もじもじとうつむきながら二人の様子を道路の隅から眺めていた。
「……する。する。結婚する!」
夢の中の幼い美春が輝かんばかりの笑顔を浮かべて答える。
別れ際には思いきって幼馴染の少年にキスまでしているではないか。
果たして今の自分にそんな真似ができるだろうか。意外とこの頃の自分は大胆だったのかもしれない。
なんだかまたしてもちょっと恥ずかしくなってきてしまった。夢の中だというのに頬が赤くなるのを感じてしまう。
そのまま夢は進行していき、幼い美春が車で立ち去る少年を見送るシーンになった。
幼い美春は去りゆく車に向かって必死に手を振っている。
美春の人生で、この日ほど嬉しかった日はない。そして、この日ほど悲しかった日はない。
だが、この日から美春が前向きに強くあろうと誓ったのは確かなのだ。
そして、美春は良いお嫁さんになろうと努力する。
いつか彼が迎えに来てくれると信じて――。
(あれ?)
テレビ番組のチャンネルを変えたみたいに、美春の見ている場面が急に切り替わった。
ゆっくりと目を見開き、眼前に広がる光景を見る。
そこに幼馴染の少年がいた。
まるでダイジェストのようにシーンが移り変わっていく。
しかし、いずれも美春の知らない場所が舞台となっていて、少年の隣に美春はいなかった。
変わりゆくシーンの中で、少年は何やら一生懸命に色んなことに取り組んでいる。
勉強、家事の手伝い、農業の手伝い、武道と、少年は直向きに努力していた。
その姿が微笑ましくて、美春はつい夢の中の少年を応援してしまう。
少しずつ少年が成長していく。
何やら少年は美春と会うために努力しているらしい。
「次に会ったら結婚しよう!」
それは何の拘束力もない、淡あわく儚はかない約束だ。
将来がどうなるかなんて全く知らない少年と少女が交わした誓い――。
普通は成長とともにそんな約束を忘れてしまうか、憶えていても守ろうなんて思わないのかもしれない。
だが、夢の中の少年は愚直なまでにその約束を果たそうと努力していた。
すべては美春のために――。
たとえ自分の願望が創りだした夢の中の出来事だとしても、美春はその事がとても嬉しかった。
ひょっとしたら現実の彼もこうして努力していたのかもしれない。
そう考えるとついついはにかみ、頬が緩んでしまいそうになる。
だが、もし本当にそうだとしたら、これから先、自分は少年と再会することができるのだろうか。
地球ではない、どこか遠い世界にやって来てしまった自分が――。
美春は名状しがたい不安を覚えてしまった。
そうしている間にも場面は移り変わっていく。
いつの間にか少年は今の美春と同じくらいの年齢になっていた。
(やっぱり女の子にモテるのかな……)
夢の中の少年はとても格好良く成長している。
昔の面影を残していて、本当にこんな風に成長しているんじゃないかと思えるほどだ。
驚くことに少年は美春と同じ高校に進学するらしい。
(本当にそうなら良かったのにな。一緒に高校に通って……)
もし同じ高校の同じクラスに在籍していたら、その時は伝えたいことがいっぱいあったのだ。
だが、現実はそう上手いものではなく、かつて美春が在籍していたクラスに少年はいなかった。
美春がこの世界にやってきたのは入学してから間もない頃だ。
まだクラスメートと仲が良くなる前で、同じ中学から一緒に入学した者達以外には友達といえる人間もいなかったが、流石に同じクラスに在籍していれば気づいていたとは思う。
(まだほんの数か月前の出来事なんだよね)
そう、美春達がこの世界にやって来てからまだ数か月しか経っていない。
あっという間だったが、とても密度の濃い時間だったと美春は思う。
あのまま地球にいたら今頃は夏休みだったのではないだろうか。
(帰れる……のかな?)
先の見えない不安を打ち消すように、美春は強く頭かぶりを振った。
目の前の光景に集中する。
どうやら少年は見事に美春と同じ高校に合格し、入学式の日がやって来たようだ。
ほんの数日も通っていないけれど、そこは間違いなく美春が通っていた高校だった。
少年は自分のクラスを見つけようと校舎の庭に設置された掲示板に視線を走らせている。
ふと、少年の視線がある一点で固定された。
(あ、自分のクラスを見つけたのかな)
夢の中とはいえ、自分と同じクラスだったら、それはとても嬉しい。
美春は胸を高鳴らせながら、そっと少年の隣に立ち寄り、その視線の先に書かれている名前を見ようとした。
(え……私の名前?)
どうやら少年は美春の名前を発見して視線を止めたようだ。
確かに美春は最初のクラスに在籍しているから、少年が自分の名前よりも先に美春の名前を発見したことは不思議でない。
少年は目を丸くしてじっと美春の名前を見つめている。
口元にはそっと微笑を覗かせていた。
それから少年は自分のクラスを発見し、周囲にきょろきょろと視線を走らせた。おそらく美春がいないか探してみたのだろう。
だが、入学式のために周囲には大勢の人がおり、少年はやむを得ずその場を後にした。
(えっと、この日は貴久君と雅人君が寝坊して、登校するのが遅れちゃったんだよね……)
現実に準拠するのならば、おそらく美春がこの場にやって来るのは入学式開始の割とギリギリの時間だろう。
美春は千堂家の三人――貴久、亜紀、雅人と一緒に登校するのが慣習となっていた。
もともとは亜紀と二人で小学校に登校していたのだが、そこに途中から亜紀の母の再婚相手の連れ子である貴久と雅人が加わるようになり、それが慣習化したのだ。
どうせ夢なのだから、現実通りじゃなく、都合良く同じ時間にやってくればいいのに――、変なところで融通が利かない夢である。
美春は思わず苦笑してしまった。
そして、入学式が始まる。
そこで美春の中学時代からの先輩である皇沙月すめらぎさつきが新入生歓迎の挨拶をしていた。
沙月は学園の生徒会長を務め、全校生徒の顔的存在なのだ。
才色兼備の秀才で、学業も運動も常にトップの成績をとり続け、周囲からは憧れの的として注目を浴びている。
(流石だなぁ、沙月さん)
新入生達は男女問わずみな沙月に対して羨望の眼差しを向けていた。
美人なのに格好が良くて、凛々しくて、同性なのに思わず憧れてしまう輝きがある。
少年も沙月に見惚れているのだろうか。
そんなことを思い、美春はおそるおそる視線を少年に向ける。
だが、少年は何やら美春がいるクラスの方を気にしているようで、沙月の挨拶は耳に入っていないようだ。
沙月のことなど見向きもしていない。
声は出ないけれど、それが嬉しくて、美春は思わず可笑しくなってしまった。
それから、少しばかり退屈な校長の話も聞き流して、美春は少年の横顔を眺めることにする。
入学式が終わり、少し長引いたホームルームも終わると、少年は真っ先に美春がいる教室へと向かった。
去り際に傍に座っていた男女混合のグループからカラオケに誘われていたが、少年は丁重にお断りしていたりする。
美春の教室の前で立ち止まると、少し緊張しているのか、少年は小さく深呼吸をした。
(頑張って!)
美春は少年の隣に立って心の中で応援の声を送った。
これから少年と再会するであろう夢の中の自分が少し羨ましい。
なんだか傍から眺めている美春も少し緊張してきた。
美春のクラスも既にホームルームを終えたようだが、大半の生徒はまだ教室に残っており、廊下までがやがやと喧騒を響かせてお喋りに花を咲かせている。
開きっ放しになっている教室の扉からそっと中の様子を窺うかがう。
きょろきょろと教室を眺めていたが、すぐに目当ての人物を発見して視点を固定させた。
(あ、いた。私だ……)
そこに座っていたのはまぎれもなく美春だった。
何を考えているのか、美春はぼんやりと椅子に座って前を見ている。
(うう、私浮いてるよぉ……)
既にできあがっているいくつかのグループが仲良く談話する中で、美春の周囲には空白地帯が出来あがっていた。
人見知りの強い性格は昔とあまり変わっていない。
初対面の相手と話すのはどうも緊張してしまい得意でないのだ。
相手が女性ならば必要に応じて自分から話しかけたり話しかけられたりしてもあまり緊張することはないが、男性相手だと話しかけることはもちろん話しかけられても言葉に詰まってしまい会話に困ることがよくあった。
幼馴染の少年が転校して以降の小学校時代によく男子生徒からちょっかいを受けることがあったことや、今の世界に来る直近の頃に街中を歩いていると馴れ馴れしく男性から話しかけられたことが異性に苦手意識を持っている原因かもしれない。
中学時代からは亜紀の義兄と義弟である貴久や雅人くらいとしか話すことがなかったことも異性にあまり免疫を持っていない理由の一つだろう。
美春にとって妹分である亜紀と一緒に過ごすうちに必然的に一緒に行動する機会が増えて慣れていったが、年下の雅人はともかく、貴久とは出会った当初は多少なりとも苦手意識を持っていたという経緯もあったりする。
(そう言えばハルトさんと話した時はあまり緊張しなかったな……)
初めて出会ったのが緊急時だったということもあるが、その後の生活において二人きりで話す時もさして緊張することはなかった。
それは美春が無意識のうちにリオと春人を重ねあわせていたからなのかもしれないが――。
「すみません。あの子って綾瀬美春さんですよね?」
少年が教室の入り口付近で喋ってい