さて、転移したハジメとユエがどこに行ったのかと言うと……二人は現在、大樹の元にいた。ハジメが、極力人の来ない場所で、かつ趣のあるところということで、この場所を指定したからだ。
少女モードに戻ったユエと恋人繋ぎで手を合わせながら、ゆったりと大樹の根元へと歩いていく。
今日は快晴で、霧の入って来ないこの場所には木漏れ日が燦々と降り注いでいた。
「ユエ、再生魔法を」
「……ん? わかった」
大迷宮への入口が閉じれば大樹も元の枯れ木に戻る。現に、眼前の大樹は枯れたままだ。再生魔法をかければ緑を取り戻すのは分かっていることだが、中に入るつもりもなさそうなのに、何故、使う必要があるのか。
少し怪訝そうに首を傾げたユエだったが、なんとなく、ただ、もっと綺麗な景色がみたいだけなのだろうと察し、微笑みながら魔法を行使した。
途端、光を放ちながら緑を溢れさせる大樹。枝葉の隙間から差し込む陽の光が幾本もの天使の梯子を作り出す。静謐な雰囲気と、神話にある世界樹ユグドラシルを連想させる壮麗な大樹と合わせれば、いっそ幻想的、あるいは神秘的とも言える美しい場所となった。
ハジメは満足そうに頷くとユエの手を取って大樹の根元に導いた。そして、そのまま、腰を下ろし、ユエを自分の膝上に座らせる。ちょうど後ろから抱え込むような形だ。少女モードのユエは、ハジメの懐にスッポリと収まる。
しばらく、互いの温かさと鼓動の音を感じながら、静寂を味わう。たまに聞こえる葉擦れの音や、そっと肌を撫でるそよ風が心地いい。
やがて、十分に自然を堪能した後、ハジメは、そっと耳元に囁くように口を開いた。
「ユエ」
「……ん?」
「お前に見せたいものがある」
「……見せたいもの?」
「ああ。本当は、もっと早く見せるべきだったんだろうが……大切なものだからってタイミングを図っていたら、一区切りついてからになっちまった。すまん」
「……? よく分からないけど、ハジメが今だと思ったのなら、それでいい」
胸元から仰ぐように自分を見つめるユエに、ハジメは目元を和らげる。そして、風にそよぐ美しい金糸に柔らかくキスを落としながら、一つのアーティファクトを取り出す。
それは、ダイヤモンドのように透き通った小さな鉱石。奈落の封印部屋で見つけた、あの映像記録用アーティファクトだ。
ハジメは、ユエを抱き締めたまま、アーティファクトを起動させて前にかざした。アーティファクトが輝き、ふっと映像を映し出す。そこに現れた相手を見て、ユエが驚愕に目を見開き呆然と呟いた。
「……おじ、さま?」
ハジメは無言でユエを抱き締める力を強くする。無意識か、意識してかは分からないが、ユエも自分のお腹に回されたハジメの手をギュッと握り締めた。
そんな二人の前で、映像の人物――ユエの叔父、ディンリード・ガルディア・ウェスペリティリオ・アヴァタールが、ゆっくりと話し始めた。
『……アレーティア。久しい、というのは少し違うかな。君は、きっと私を恨んでいるだろうから。いや、恨むなんて言葉では足りないだろう。私のしたことは…………あぁ、違う。こんなことを言いたかったわけじゃない。色々考えてきたというのに、いざ遺言を残すとなると上手く話せない』
自嘲するように苦笑いを浮かべながら、ディンリードは気を取り直すように咳払いをした。
『そうだ。まずは礼を言おう。……アレーティア。きっと、今、君の傍には、君が心から信頼する誰かがいるはずだ。少なくとも、変成魔法を手に入れることができ、真のオルクスに挑める強者であって、私の用意したガーディアンから君を見捨てず救い出した者が』
ハジメが瞑目する。その言葉を聞き入るように。あるいは故人を悼むように。
『……君。私の愛しい姪に寄り添う君よ。君は男性かな? それとも女性だろうか? アレーティアにとって、どんな存在なのだろう? 恋人だろうか? 親友だろうか? あるいは家族だったり、何かの仲間だったりするのだろうか? 直接会って礼を言えないことは申し訳ないが、どうか言わせて欲しい。……ありがとう。その子を救ってくれて、寄り添ってくれて、ありがとう。私の生涯で最大の感謝を捧げる』
ユエは微動だにしない。ハジメに見えるのは光を反射してキラキラと煌く金糸だけ。
『アレーティア。君の胸中は疑問で溢れているだろう。それとも、もう真実を知っているのだろうか。私が何故、あの日、君を傷つけ、あの暗闇の底へ沈めたのか。君がどういう存在で、真の敵が誰なのか』
そこから語られた話は、既に知った事実と推測を外れるものではなかった。
すなわち、ユエが神子として生まれ、エヒトルジュエに狙われていたこと。それに気がついたディンリードが、欲に目の眩んだ自分のクーデターにより、ユエを殺したと見せかけて奈落に封印し、あの部屋自体を神をも欺く隠蔽空間としたこと。ユエの封印も、僅かにも気配を掴ませないための苦渋の選択であったこと。
『君に真実を話すべきか否か、あの日の直前まで迷っていた。だが、奴等を確実に欺く為にも話すべきではないと判断した。私を憎めば、それが生きる活力にもなるのではとも思ったのだ』
封印の部屋にも長くいるべきではなかったのだろう。だから、王城でユエを弑逆したと見せかけた後、話す時間もなかったに違いない。
その選択が、どれほど苦渋に満ちたものだったのか、映像の向こうで握り締められる拳の強さが、それを示していた。
『それでも、君を傷つけたことに変わりはない。今更、許してくれなどとは言わない。ただ、どうかこれだけは信じて欲しい。知っておいて欲しい』
ディンリードの表情が苦しげなものから、泣き笑いのような表情になった。それは、ひどく優しげで、慈愛に満ちていて、同時に、どうしようもないほど悲しみに満ちた表情。
『愛している。アレーティア。君を心から愛している。ただの一度とて、煩わしく思ったことなどない。――娘のように思っていたんだ』
「……おじ、さま。ディン叔父様っ。私はっ、私も……」
父のように思っていた。その想いは、ホロホロと頬を伝う涙と共に流れ落ちて言葉にならなかった。だが、ハジメの手を握り締める手の強さが、何より雄弁に伝えている。
『守ってやれなくて済まなかった。未来の誰かに託すことしか出来なくて済まなかった。情けない父親役で済まなかった』
「……そんなことっ」
目の前のあるのは過去の映像だ。ディンリードの遺言に過ぎない。だが、そんなことは関係なかった。叫ばずにはいられなかった。
ディンリードの目尻に光るものが溢れる。だが、彼は決して、それを流そうとはしなかった。グッと堪えながら、愛娘へ一心に言葉を紡ぐ。
『傍にいて、いつか君が自分の幸せを掴む姿を見たかった。君の隣に立つ男を一発殴ってやるのが密かな夢だった。そして、その後、酒でも飲み交わして頼むんだ。“どうか娘をお願いします”と。アレーティアが選んだ相手だ。きっと、真剣な顔をして確約してくれるに違いない』
夢見るように映像の向こう側で遠くに眼差しを向けるディンリード。もしかすると、その方向に、過去のユエがいるのかもしれない。
『そろそろ、時間だ。もっと色々、話したいことも、伝えたいこともあるのだが……私の生成魔法では、これくらいのアーティファクトしか作れない』
「……やっ、嫌ですっ。叔父さ、お父様!」
記録できる限界が迫っているようで苦笑いするディンリードに、ユエが泣きながら手を伸ばす。叔父の、否、父親の深い深い愛情と、その悲しい程に強靭な覚悟が激しく心を揺さぶる。言葉にならない想いが溢れ出す。
ハジメは、更にユエを強く抱き締めた。
『もう、私は君の傍にいられないが、たとえこの命が尽きようとも祈り続けよう。アレーティア。最愛の娘よ。君の頭上に、無限の幸福が降り注がんことを。陽の光よりも温かく、月の光よりも優しい、そんな道を歩めますように』
「……お父様っ」
ディンリードの視線が彷徨う。それはきっと、ユエに寄り添う者を想像しているからだろう。
『私の最愛に寄り添う君。お願いだ。どんな形でもいい。その子を、世界で一番幸せな女の子にしてやってくれ。どうか、お願いだ』
「……当然。確約するさ」
ハジメの言葉が届いたわけではないだろう。だが、確かに、ディンリードは満足そうに微笑んだ。きっと遠い未来で自分の言葉を聞いた者がどう答えるか確信していたのだろう。色んな意味で、とんでもない人だ。流石は、ユエの父親というべきか。
映像が薄れていく。ディンリードの姿が虚空に溶けていく。それはまるで、彼の魂が召されていくかのようで……
ユエとハジメが、決して離れないと寄り添いながら真っ直ぐ見つめる先で、ディンリードの最後の言葉が響き渡った。
『……さようなら、アレーティア。君を取り巻く世界の全てが、幸せでありますように』
深い森の中に、泣き声が木霊する。
悲しくはある。けれど、決してそれだけではない、温かさの宿った感涙にむせぶ音だ。それをハジメが優しく包み込む。
ユエは、体を回しハジメの胸元にしがみついた。そこで思う存分に感情を吐き出す。
どれほどそうしていたのか。
やがて、涙で濡れた顔をそっと上げたユエ。その頬をハジメの手が優しく拭う。
「ユエ」
「……ん」
ユエの両頬を包み込みながら、ハジメが、愛しさと決意を込めた眼差しと共に言葉を紡いだ。
「俺は、世界で一番幸せな男だ。今、こうして腕の中にその証拠がある」
「……ん。なら、私も、世界で一番幸せな女。今、こうして包まれているのが、その証拠」
今にも唇が触れ合いそうな距離で、互いの吐息を感じながら見つめ合う二人。なんとなく可笑しくなって、小さく、くすりと笑い合う。
そうやって笑いながら、ハジメはおもむろに指輪を取り出した。銀色のシンプルな指輪だ。特に特別な能力は付与されていない。敢えて言うなら、半端なく頑丈というくらいだろう。
木漏れ日に反射してキラキラと輝くその指輪を、同じようにキラキラと輝く瞳でユエが見つめる。
「……ん。プロポーズ?」
かつて、【オルクス大迷宮】で魔昌石シリーズのアクセサリーを渡されたとき、冗談めかして言った言葉。そのとき、ハジメは思わずツッコミを入れたのだが……
「そうだ」
「……ぅ」
今度は、真っ直ぐ打ち返した。真剣な眼差しが本気であることを伝えてくる。流石に照れくさくて、いつもの「……ん」すら出ないユエ。顔は既にリンゴのように真っ赤だ。
「日本では、『娘さんを下さい』と相手の父親に言うのが定番なんだ。だから、ユエが親父さんの真意を知ったこの場所で言おうと思う」
「……んぅ」
その言葉を言う相手は既にいないから。本人に、言う。
「ユエが欲しい。この先の未来も全部。俺にくれ」
「……あぅ」
身悶えるユエ。
返事など、当然、決まっている。
花が咲く。この世で一番可憐な花。もし、それに花言葉があるのなら、それは間違いなく“幸福”だ。
咲き誇る満開の笑顔と共に、ユエが応える。
「……んっ!!」
ユエの差し出した左手の薬指に、永遠を示す指輪がはめられた。指輪はもう一つ。それを今度はユエがハジメの薬指にはめる。
互いに見せ合い、また、くすくすと笑い合う。
しばらくすると、ユエが悪戯っぽい笑みを浮かべながら尋ねた。
「……それで? ハジメは後、いくつ指輪を用意しているの?」
「……ユエ。それを今言うのはどうかと思う」
「……次はシアにして上げて」
「だから、もう少し余韻をだな……」
ハジメが、からかうように笑みを零すユエに抗議の声を上げようとして、その口を指でピトッと塞がれた。そのままユエは視線を明後日の方向に向ける。
釣られて視線を転じたハジメは、樹海の奥からシア達が駆けてくるのを捉えた。どうやら、その気配に気がついていたが故の質問だったらしい。
「……ふふ。ハジメなら、みんな、纏めて幸せに出来る」
「常識に照らすと、俺はただの最低野郎なんだけどな」
「……魔王様に常識は通用しない。それに、どんな形でも本人が幸せなら問題ない」
「まぁ、もう決意も覚悟も