アンナは全く動じる事なく、社の脇に立つと、小さな手で、女性らしい細い手を取った。
左手を、両手でぎゅっと握られた社は、きょとんとアンナを見詰めた。
それから、へにゃりと眉を下げ、緩く首を傾げる。
「えっと、どうしたの?」
「……ミコトを、助けてくれてありがとう」
「!?」
周防は瞠目した。
まさか、この少女がその為にこの場に留まっていたとは思わなかったからだ。
勿論その為だけではないだろう。そうでなければ、周防を引き留めておく必要はない。だが、この場に留まる目的のひとつがこれとは、あまりにも予想外だった。
社も、周防がいる場で言われるとは、露にも思わなかったのだろう。
彼女も同じ様に、目を見開いていた。けれどすぐに、先の様に眉を下げた。
「でもそれは、青の王様の所でも言った様に、事故みたいなもので。だから、お礼なんて勿体ないから大丈夫だよ。でも、ありがとう」
けれど、アンナは首を振った。
「それでも、ミコトが帰って来られたのは、シロのお陰。だから、ありがとう」
「……アンナちゃん……うん、ありがとう」
どうやら、アンナの気持ちを受け取る事にしたらしい。
社は、優しげに目を細めて言った。
それを見て、アンナが握る手に力を込めた。
社はその変化に気付き、またも首を傾げた。
「どうし」
「シロ、わたしは、わたしたちは、アナタを恨んでなんかいない」
「え……?」
社の瞳が、先よりも大きく見開かれた。
構わずにアンナは続けた。
「アナタが気にする事は何もないの。わたしは、今、幸せだから」
「アンナちゃん」
「そいつの言う通りだ」
「え?」
周防がアンナの横に並んだ。
漸くアンナの意図に気付くなんて、再生したばかりとは言え、感が鈍っているなと自嘲する。
まさかこんなに早く行動に移すとは思っていなかったが、ここで乗らない手はない。
「お前、自分が引き籠もったりしなきゃ、とか思ってんだろ」
「!?」
「何年も前の大穴の事件だったり、こいつの事だったり、十束の事だったり……お前、自分が神様にでもなったつもりかよ?」
面白いくらいに見開かれていく瞳に、零れてしまうんじゃないかと少し心配になる。
呆然としている彼女に代わり、噛み付いてきたのは忠犬と仔猫だった。
「貴様!王だからと言って、無礼にも程があるぞ!」
「ひどーい!我が輩のシロはあったかくて優しくて凄いんだからー!」
「うるせぇ、少し黙ってろ」
「!!」
借りを返すのに、些か、否、かなり邪魔になる。
周防は、威嚇として、目に見える赤のオーラを身に纏った。
それに、社がハッと我に返った。
「クロ、ネコ、お願いだから、口を挟まないでいて」
「だが、こんな侮辱は……」
「シロー……」
「……ごめん。黙ってるのが辛かったら、外に出ていても良いから」
そこまで言われて、流石に二匹共に口を閉ざした。
大人しくなったのを確認して、社は周防を見た。
目で促され、周防は肩を竦める。
頼りない見た目をしていても、やはり王なのだなと思う。だが、だからこそ、彼女は知らなければならない。
どれだけの力を持っているのだとしても、自分がただの人間でしかないのだという事を。先ほど、自分で同じ様な事を口にしていたのだから、尚更だ。とは言え、話の腰を折られて、少し怠くなったのも事実だった。
周防はベッドに腰を掛け、ゆるりと口を開いた。
「お前がどれだけぶっとんだ力を持ってんのかってぇのは判った。けどな、だからってテメェで何でもかんでもかたぁ付けられると思ったら大間違いだ」
気怠げに、けれど確実に核心をついていく。
恐らく、こんなに話すのは後にも先にもこれきりだろう。
「まぁ、大穴の事件はどうにか出来たろうし、あれがなけりゃぁアンナの件も起きなかったろ」
「…………」
「だがな、十束に関しては、どうにも出来なかったと思うぜ。あの日、あの場所で、あいつがああなるなんて、あの時は誰も思いもしなかった。お前ひとり、地上にいたところでどうなるってもんでもねぇだろ」
「そうかもしれない、でも……」
「たらればなんざ、どうでも良い」
「……ッ……」
身も蓋もない事を言われ、社は言葉に詰まった。
そんな彼女の手を、アンナがにぎにぎと揉んだ。
社はハッとして、アンナを見た。
「ミコトは素直じゃないから」
「あ?事実しか言ってねぇだろ」
「大事なとこが、抜けてる。タタラは、シロが悪い訳じゃない。全部、無色の所為。その無色はもういない。シロのお陰」
後にも先にもこれきりなのは、アンナもだな。
ぼんやり考えながら、続きを引き継いだ。
「大穴の一件、根本に返っちまうとよ、今この瞬間はなかったんじゃねぇか?」
「……?」
「オレも宗像も王になる事もなく、吠舞羅も、あんな大所帯にはならなかったろうな。アンナの件も起きなかったろうが、代わりに出逢う事もなかった」
「……!」
息を飲む社に、自然と口角が上がる。
「それに、お前も、そこの犬や猫と逢う事はなかっただろう」
「そんなのやだあああああ!」
叫んだのは仔猫だった。
咄嗟に口を突いてしまったのだろう。そんな仔猫の口を、黒犬が前足で塞いだ。
こんな状況でなければ、癒やされる光景だったに違いない。
「お前は、何でもかんでも重く考えすぎってこったな。それとも、ジジイになると卑屈な考え方しか出来なくなんのか?」
「それは……」
ジジイと言われたのが癇に障ったのか、社は何とも言いようのない顔をした。
否定したいが、マイナスにしか考えていなかったのは事実である。故に、確かな言葉が見付からない。そんな様子だった。
「やっぱり素直じゃない」
「…………」
余計な世話だと言いたい。
意地悪な言い方になってしまうのは、最早性分だ。これは、十束や草薙にも言われてきたが、きっと一生変わらないだろう。
「あー、何だ……要は、ひとりで全部抱え込もうとすんじゃねぇよって事だ」
「……え?」
「お前は、王である前に、ひとりの人間、だろ?」
「あ……」
自分で、黒犬に言ったばかりの事だ。
王は、人間離れした力を持った異質な存在だ。けれど、それでも、ひとりの人間である事に変わりはない。
「シロ。シロはひとりじゃない。クロスケもネコもいる」
「クロスケ、だと?」
「わたしも、いる」
「アンナちゃん……」
黒犬の呟きはスルーされた。
「アンナで良い」
「……アンナ……」
「うん。シロ、誰もアナタを恨んでなんかいない。だから、怖がらないで」
ぽってりと赤い、社の唇が震えた。
泣きそうに眉を歪ませて、けれど涙を流す事はなく、失敗した様な笑顔で、
「ありがとう」
震えた声で言った。
泣けば良いのに、どうして泣かないのか。
王だから?元が男だから?実年齢はジジイだから?いやいや、ジジイは涙もろいっていうのが定義だろ。
ぐるぐると無表情の中で考え、気付いた時には、彼女の頭を撫でていた。
撫でたかった訳ではない。撫でれば、泣くだろうかと直感的に思ったからだ。けれど、それは間違ってはいなかった様で、
「あ、あれ?」
ぽろぽろと、大きな雫が止め処なく流れ始めた。
「やだ、泣きたくなんかッ、泣いたらダメなのに……」
必死に、片手で涙を止めようとする。それでも左手を放さないアンナは、どういうつもりなのだろう。
泣かす事に成功した周防は、社が零した言葉を耳敏く拾った。
「泣く事にダメなんてのはねぇだろ。泣きたいときゃぁ泣けば良い」
これまでに、彼女はどれだけの涙を、耐えてきたのだろう。
溜まりに溜まったモノを吐き出す様に、彼女は声を押し殺して泣き続けた。
その様子に、仔猫が泣き出しても、黒犬が慌てふためいても、彼女が泣き止む事はなかった。